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生温い話ばかりです…
2024.11.21,Thu
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2010.02.20,Sat
 

 なあ、あれ…と言ってジャッカルが伸ばした人指し指を、丸井は叩き落とした。
「いてぇ!」
「ばっか! 幸村くん指差すんじゃねえの!」
「…いやだって、あれ」
「黙っとけって」
 毎度親切心から踏まなくていい地雷を降んで、被害にあっているダブルスの相方をなだめて丸井はあえて視線をずらす。
 きらきらと王冠のように輝く朝日を浴びながら、レギュラー部員専用の広い更衣室へ最後に入ってきた彼と、目をあわせることもせずに挨拶だけを丸井は交わした。
「おはよー幸村くん」
「ああ、おはようブン太。ジャッカルも」
「お、おう」
 声に機嫌が表われることはなかったが、こういうときの幸村に近付いてはいけないことを、丸井はよく知っていた。経験よりももっと深い、丸井の本能が早くここを立ち去れと騒いでいる。
 けれどあからさまに逃げ出すようにすれば、どうなるか分かったものではない。それにどうせ、放っておいても地雷を踏む奴がやって来るのだ。
 常勝を掲げる立海は、その実現の為に厳しいトレーニングが組まれている。大半の部員は消化するだけで一日が終わるような内容だ。その為にみな早朝からきて練習に励む。基礎トレーニングだけで終わったらテニスではない。
 それでも全てのトレーニングを終わらせて尚コートに立てる者は、ほんの一握りだった。
 その一握りの頂点に立つ幸村精市が、今日は珍しく一番に現れなかった。
 部室の鍵を持つのは役職を持つ者の特権だから、部長の幸村でなくて副部長の真田や会計の柳がいれば済む話だった。実際これまでもそれでなんの問題もなかった。
 彼等三人を含めたレギュラーの間でトップ争い(誰が一番最初に登校してくるか)があっても、それは大抵僅差の話だった。才能を惜しむことのない努力で裏打ちしてこそ、立海の名を背負うことができる。あとたかが学校にやって来るだけのことにも発揮されるような極度の負けず嫌いでなくてもならないようだ。
 今日のように、丸井が着替えを終えた頃に幸村がやって来るなんてことはついぞなかった。いつもに比べれば遅かったが、それでも遅刻と呼ぶほどではない幸村に、しかし丸井同様誰一人話しかけようとしない。
 もちろん練習がはじまるまでにはまだ間があるし、部室の鍵を持っているのは幸村ひとりではなかった。責める必要がないから声をかけなかったのではないとも言える。そうでないことは丸井自身がいちばんよく分かっていた。他の者もそうだろう。
 テーピングを気にかけシューズの紐を結び直し、皆それぞれ支度に忙しいように見せている。大体普段から幸村を責められる者などいなかった。その程度に幸村は完璧な部長だったし暴君でもあった。
 誰も幸村に声をかけないのは、彼に責められる理由がないだけではなくて。
「なにをぐずぐずしている、幸村!」
 ばあんと漫画のような勢いとタイミングの悪さで、扉を開いて真田が現れる。全くこの男の間の悪さ空気の読めなさ加減は天下一品だった。
 丸井はなあと声を上げる代わりにジャッカルの肩を叩いた。
 明らかに気分を害した顔で、幸村が戸口に目を向ける。石でも投げつけそうな眼差しにも真田は怯まない。いやいっそ尻尾でも振りそうな上機嫌で、戸口から三歩で幸村の元に辿り着いて再び声をはりあげた。
「な、なんだその頭は! 幸村!」
 胡乱げな眼差しで真田を睨みつけ、幸村は何も言わず眉間に皺を一本増やした。
 黙っていれば少女でも通りそうな美しい顔は、そんな風に少し変化を加えただけで幸村がなにを考えているかよく分かる。分からないのは真田ばかりだ。馬鹿だから。
「…」
 じっと睨みつけてくる幸村の眼差しは、その前に立っているわけでもない丸井にさえ恐ろしく思えるものだった。走って逃げ出したくなる。
 なのにそれを真正面から受け止めている真田が、どうして照れたようなすこし得意気な顔をしてみせるのだ! そんな顔でこっちを見られても困る。別に羨ましくもなかった。
 どこか見せつけるような表情を浮かべて部室を見渡したあと、真田は幸村へ向き直ってうかがうように表情を変えた。小さく首を傾げて、幸村の顔を覗き込むようにするのはきっと案じているからだろう。
 子どもにするような分かり易い心配りに、幸村の肩がぴくぴくと震えて青白いオーラが立ち上るのが丸井には分かった。立海のレギュラー部員にもなると、オーラの一つや二つ見えて当然だった。
「どうしたのだ幸村? 変わった髪型だな!」
「………寝癖だよ」
「なに寝癖だと!? たるんどる!」
 予想を一ミリも外れない真田の台詞を最後に、丸井は幸村達から目を逸らした。隣りに立ったジャッカルは口から泡でも吹きそうな顔色になっている。
 鈍い音が聞こえたような気がしたが、見ていないからどこからのものか分からなかった。そう言うことにしておく。
「じゃあ俺達、先行くから!」
 元気よく手を振って部室から出て行くとき、コンクリートの床の上に転がる黒い帽子が見えた気がしたが、きっと気の所為に違いなかった。



 その日の幸村は、いつにもまして力が入っていた。誰よりも速く走って跳んで投げて動いて、恐ろしいスピードでトレーニングを消化していく。
 その後ろをよろよろと、覚束ない足取りで真田が付き従う。
 かばうように下腹に手を当てているのは、何故だろうか。それは誰にも分からない。
「さあ誰が相手になる?」
 レギュラーで一番遅く登校してきたくせに、誰よりも早くトレーニングメニューを消化し終えた幸村がそういってコートに立つ。くせにだなんて言っていたことが知られたらきっと命はない。
 正面に構えているのはラケットの筈だが、一人や二人叩き潰している凶器のように見えるのは何故だろう。増えた疑問の前で口を開く者はいなかった。
 いつもこういう場面で大活躍する空気の読めない立海の皇帝は、下腹を押さえたまままだコートの周りを走っている。使い物になりそうにない。
「なあ、誰?」
 ぐるりとラケットを振り回した幸村を、遠巻きに見ていた部員達が凍りつく。こういうときの幸村は差別をしなかった。区別と言った方が正しいかもしれない。幸村のテニスにすりつぶされるのに、平部員も先輩もレギュラーも関係がなかった。
 目があったら最後だ。
「精市」
 ラインの外側で只管に目を伏せている集団から、ひとり前に出てきた者がいた。柳蓮二。
 目が合う心配のない彼は、コートの反対側ではなくて幸村と同じ側に足を踏み入れるなり、なんの迷いもなく近付いていった。ラケットを構えた幸村のプレッシャーに怯える様子もない。
「なに? 蓮二」
 ほんのすこしだけ背の高い柳を見上げる幸村の眼差しは、抜き身の刀のように鋭かった。
 もともとが少女に間違われるほど美しく柔和な顔立ちをしている幸村は、そうすると恐ろしいほど迫力があった。正面で受け止めて微動だにしないでいられるのは、極一握りの者に限られた。
 一同が固唾を飲んで見守る中、柳はいつも通りの落ち着いた声を幸村に投げ続けた。
「湯が沸いた。ドライヤーも探してきたぞ」
「…うん」
 へにょり。
 真っ直ぐに仁王立ちしていた幸村の肩が下がり、小さな頭が前へと落ちてどこか塩垂れたような風情に変わる。
 幸村のそんな姿はそう見られるものではなかった。ましてやその後頭部、向かって左側から、触覚のように髪の毛の束が空に向いているのなんてはじめてのことだ。
 人体の神秘としかいいようがない。
「どこに行くのだ」
 羽織ったレギュラージャージの上から肩を押され、幸村がコートの一番外側のラインを跨いだところでそう声が上がった。
 投げられたその声に驚いたのは幸村や柳よりも、コートの周囲で凍りついていたテニス部員だった。
 こんなタイミングで声を上げる者など、五十人を超える立海テニス部いや全校を探しても一人しかいないだろう。
「俺が相手になるぞ!」
 いつのまにやらトレーニングメニューを終えた真田が、肩を怒らせ反対側のコートに立っていた。もうその話が終わっていることなど真田は知らないし気付きもしない。
 柳が口を開くより先に、幸村が痛烈な一打を真田に叩きつけた。残念ながらそれはラケットもボールも使わないから、真田が打ち返せ可能性は万に一つも存在しない。
「四六時中帽子なんか被ってるから、真田は臭いんだよ。加齢臭」
「な…!」
「やめておけ精市」
「だってさー!」
 真田の癖に生意気なんだよ!のあとに、とても書き記すことのできない罵詈雑言を並び立てながら、幸村は柳に連れられて出ていった。
 あとに残された、たった一人でコートに立つ真田には誰も近付こうとはしなかった。
 だってどんな慰めも思い付かないだろう。



 幸村が連れてこられたのはレギュラー専用の更衣室だった。
 ここなら誰も来ないと言った柳に対して、なにか困ることがあるのかと不機嫌そうに幸村は返した。
「少なくともバレンタイン前に、立海の王子様の寝癖姿をおなごたちが見んで済むじゃろが」
 ドライヤーを手にして現れた仁王が、感慨深げに小さく頷きながらそういう。
 今年のバレンタインは日曜日だったが、そんなことは幸村を頂点と仰ぐ立海テニス部には関係がなかった。幸村を王子様と言って憚らない多数の少女達にも多分関わりはないだろう。
「そんな程度でいなくなってくれるなら、大助かりだよ」
 当の王子様は鼻で笑って仁王の台詞を一蹴した。
 肩を落とし溜め息を吐いた仁王に、もう一つ幸村は疑問を重ねた。
「大体、なんで仁王がいるんだい?」
 レギュラージャージの袖をまくった仁王の手には、小振りなドライヤーが握られている。柳が探してきたのはこれかと幸村は理解したが、仁王までついてくるとは聞いていない。
「俺が頼んだ」
 幸村の疑問を解消したのは、今度は柳だった。ドライヤーの代わりに、柳の手には電気ポットと何枚かのタオルがある。
「仁王がついてくるドライヤーだったの?」
「違うな」
「そない失礼なこというに、手伝ってやらんき」
 口を尖らせた仁王を、ぐるりと首を回して幸村が振り返る。
 あんまりに可愛いことを仁王が言うものだから、弾けんばかりの笑みがその顔にははりついていた。
「なんだって? 仁王」
「嘘じゃ空耳じゃ」
「そうなんだ」
「そうじゃ」
 目を逸らしながら仁王が、口元に貼り付かせた笑みをかけらも崩すことなく幸村が口をつぐんでから、柳がようやく続きを口にした。
「俺は生まれてこのかた、ドライヤーなど使ったことがないのでな」
「…なんでって、ここは訊いておいた方がいいんだろうね?」
 眉を寄せ嫌々ながら幸村が問い掛けると、いつもと変わらない涼しい顔で柳は答えを口にした。
「何故なら俺は、寝癖がついたことなどないからだ」
 ちっ!
 あからさまに高い音を立てて幸村が舌打ちをした。立海の王子様にあるまじき所業をもし女生徒達が目にしたらどう思うだろうか。ましてやつい先日副部長に任命されたばかりの真田が目にしたら、きっととても悲しい顔をするだろう。
 自分などよりずっと付き合いの長いという彼が、どうしていまだに王子様と慕う少女達と同じ反応を示すのか、全くそれは仁王には理解できない。
 舌打ちだけで残りは飲み込むなど思い付かない王子様は、仁王の正面に腰を下ろして更に言葉を続けていた。
「この天然サラサラヘアが! 蓮二なんか陰毛も真っ直ぐになればいい!」
「…ゆきちゃん、それくらいにしときんしゃい…」
 肩を落としとりあえずそう呟いた仁王の隣りで、幸村の物言いなど馴れているのか気にならないのか気にするだけ無駄と分かっているのか柳は眉一つ動かさなかった。
 動かさないまま、柳はまっすぐに幸村を見詰める。相変わらず瞼は閉じられていたけれど、それがどこを見ているのか分かる程度に親しくなってもうすぐ一年経つ。喋るテンポが違うのにも馴れた。
 機嫌の上下の分かり難い柳が、今どう思っているのかも大体分かる。だから不思議だった。どうして怒らないのだろうか。
「例えば仮に、お前の呪いで俺の陰毛がサラサラストレートになったとしよう。しかしそれを、精市が見る機会がどこにある?」
「いや、絶対押し倒しても見ると思うぜよ、こいつは」
「見るね」
 自分を指差した仁王の指先を叩き落としながら、強く頷いた幸村にも柳は表情を変えなかった。
 無表情ともいえる整った人形のような顔のまま、柳は言葉を重ねた。
「それに俺には、することがある」
「俺の寝癖を直すより大事な事があるとでも?」
「………」
 なにか言いかけたが、仁王は声にしなかった。たとえば世界平和だとかだったら大事なんじゃないだろうかとか。
 しかし幸村の機嫌を損なうことほど、世界の平和から遠離ることはないだろう。少なくとも仁王個人の世界平和は踏みにじられて粉々になるに違いない。嫌な汗をかいた掌の中で、ドライヤーが滑りそうになった。
「弦一郎があと三十秒でこの部室にやってくる確率は65%。一分後なら90%だ」
 一体どこでとった統計なのか、しかし外れた所も見たことのない柳の予測通り、高らかに近付いてくる足音があった。辛うじて走っているとは言えない速さだが、その手をかたく握り締め両腕を大きく前後に振りながら、肩で風きり歩く姿が容易に想像がついた。
 というかそれは真田弦一郎その人なのだが。
 きっと柳の言った通りにこの部室の前に立つなりドアを開き、幸村の名を呼ぶのだろう。真田の幸村への傾倒ぶりは、テニス部員なら知らない者はいない。監督のいなくなってしまったテニス部で、指導を仰ぐべき相手が幸村だからだと真田は言っていたがそれが言い訳だと言うことくらいみな分かっている。
 分かっていてなにも言わないのは、幸村が言わないからだった。煩わしいと思っているに違いないのに、実際かなり邪険にも扱っているのに遠ざけようとするのは見たことがなかった。
 今だって部室に入って来るなり騒ぐ真田を幸村は一喝して黙らせることだろう。或いはあの胡散臭い五感剥奪とやらで身動き取れないようにするか。ついでに自分が真田に叱られるのも回避してくれるくらいの親切心を見せてくれるといいのにと思っている仁王の耳に聞こえたのは、想像とすこし違う幸村の声だった。
「頼むよ、蓮二」
「了解した」
 どこか追い詰められたような、困惑とすこしだけ嬉しそうな響きも聞こえる複雑な色を帯びた声で幸村が言った言葉に、柳はそう頷いただけだった。
 一体なにを頼まれたのか、仁王でも理解するまですこしかかる。真田では多分一生かかっても分かるまい。
「では雅治、頼んだ」
「プリッ」
 片手を上げて部室の外へと出て行った柳と外側へ開かれた扉の間で、一瞬だけ真田の姿が見えた。帽子の下の顔は怒っているのだろう。赤くなった顔色はまるで赤鬼のようだ。
 肩越しに振り返ってまでその真田を確認していた幸村は、柳の後ろで扉が閉じられると同時に体を前に戻す。
 ついでに掌で隠されていた髪の毛も、ぴょんと上に向かって跳ね上がった。
「あーあ。やっばり蓮二には頭があがんないなー」
「…そうかい」
 ここまでのやり取り、最後を除けばどの辺りが頭の上がらない人間の態度なのか。聞きたいのは山々だったが、仁王は賢明にも口を噤んだ。
 そういうことを言うのは、いま扉の向こうで騒いでいる真田一人で充分だった。
 濡らしたタオルを押し当ててよく湿らせた幸村の柔らかい髪に、仁王はドライヤーを向けた。大きく上に向かって伸びたようになっている幸村の癖毛が、重力に従ってくれるようになるまではしばらくかかりそうだった。



立海の王子様は真田が大好きという話。
寝癖頭なんか極力見られたくないんです。

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